「幸せホルモン」という言葉に感じる違和感|健康情報との向き合い方

セロトニンと聞くと、
多くの人が「幸せホルモン」という言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。

インターネットで検索しても書籍を探しても、
セロトニンは
「心と体に良いもの」
「増やした方がいいもの」として、
肯定的に語られることが多いように感じます。

けれど私は、良いことばかり持ち上げるセロトニンに、
どこか引っかかる感覚を持ってきました。

セロトニンという物質の良い面ばかりが強調され、
それ以外の側面があまり語られていないように感じるからです。

物事には、たいてい表と裏があります。
多くの場合、良い面だけではなく、
別の角度から見たとき、裏の側面もあるものです。


ホルモンや神経伝達物質に限らず、
体の中で働くものは、
単一の作用だけを及ぼすとは限りません。

状況によって。
量によって。
その人の体の状態によって。

同じものでも、働き方や意味合いは変わってくるはずです。

それにもかかわらず、
「これは良いものだから増やそう」
という形で、あまりに簡単に語られているように感じることがあります。

セロトニンも、
精神面に良い働きがあるから増やそう、
という文脈で語られることが多いように思います。

もちろん、それ自体を否定したいわけではありません。

ただ、体の働きは本来もっと複雑で、
単純に「増やせばよい」と考えるのは、少し違うような気がするのです。


一般向けの情報ではあまり語られませんが、
セロトニンに関する見方は、
必ずしも一方向だけではありません。

ある文脈では好ましい働きとして語られ、
別の文脈では、慎重に扱う必要があるものとして語られることもあります。

こうした相反する見方が存在すること自体は、
研究の世界では珍しいことではありません。

体の中で働く物質は、
環境や体質によって作用が同じとは限らないものです。

にもかかわらず、
一般に流通する情報の多くが、「良い面」だけに偏って見えることがあります。

セロトニンにしても、デメリットは聞いたことがありません。
やたら良い事ばかり過ぎると、逆に何か他の意図があるのでは?と勘繰ってしまいます。

まあどちらにしても、少し立ち止まって考える余地があってもいいのではと思うのです。


体の状態がつらいとき、
「何かが足りないからだ」
「だから増やせばいい」
という説明は、とても分かりやすいものです。

分かりやすい説明には、安心感があります。

けれど実際の体は、
そんなに単純な仕組みではありません。

体は、人間の想像以上に絶妙なバランスで保たれています。

セロトニンが増えたり減ったりすることにも、
おそらく、その時々の理由があるはずです。

何かを増やすことが、
本当にその人の状態に合っているのか。
別のバランスを崩してしまわないか。

そうした視点が抜け落ちたまま、
ただ「良いもの」として語られてしまうことに、違和感を感じてしまうわけです。


ここで誤解してほしくないのは、
セロトニンが悪いものだと言いたいわけではありません。

そうではなく、

良いか悪いか。
増やすか減らすか。

このように白か黒かみたいな、二択だけで語られることに違和感があるのです。

体の中で起きていることは、もっと状況依存で繊細なはずです。

セロトニンという物質が体に存在しているということは、体にとって役目があるから存在しているのでしょう。

そこに、単純な良い悪いはないはずです。

セロトニン以外にも何種類もホルモンがあるということは、必要があるからであって良いも悪いもない。
体は本来、さまざまな身体活動を通して、その時々に必要なバランスを取ろうと調整しているのだと思います。

だからこそ、
人間の都合だけで「これを増やせばよい」と考えることは、自然界の摂理からしても違うのではないかと考えてしまいますし、少し慎重でありたいものです。


「幸せホルモン」という言葉は、
分かりやすく、前向きで、
人を安心させる力があります。

その一方で、
分かりやすい言葉ほど、
物事の一部だけを切り取ってオーバーに発信されてしまうこともあります。

だからこそ、
その言葉だけを鵜呑みにするのではなく、
別の見方や、慎重な意見があることも知った上で、
自分なりに受け取る姿勢が大切なのではないかと思うのです。

これは、セロトニンに限った話ではありません。
健康情報全般に言えることではないでしょうか。


体のこと、心のことは、
「これが正解」と一つに決めつけない方が、
結果的に安全なことも多いと感じています。

近年になって人間が知り得たことは、
長い人類の歴史から見ても、
生命の仕組み全体から見ても、
ほんの一部だと思うのです。

この文章は、何かを否定するために書いたものではありません。

ただ、
「当たり前」のように使われている言葉に、
少し立ち止まって考えるきっかけになればと思い、書きました。

二元論の答えを出すためではなく、
この先も、自分の頭で考え続けるためには、必要なことなのかなと思います。


のぞみ|体と心の相談室

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