不調が出ると、私たちはすぐにその不快感を「消したい」と思ってしまいます。
かゆい、つらい、しんどい・・・
そりゃそうです。
快適じゃないんだから、早く何とかしたくなる。
でも、その不快な不調にも、何かしら意味があるとしたらどうでしょうか?
不快感や違和感。
逆に、爽快感や気持ちよさ。
こうした体から出てくる感覚にも、それぞれ意味がある。
そんなふうに考えてみることはできると思うのです。
体が発する声というのは、私たちに何かを気づかせるためにあるのかもしれません。

不調は、ただの故障とは限らない
体はいつだって、なんとかバランスを取ろうとしています。
それがうまくいっている時は、特に何も感じないか、むしろ「調子ええな」という感覚になるでしょう。
気分がいい。
体が軽い。
なんだか動きやすい。
そんな時は、体が「今いい感じやで」と無言で語ってくれているのかもしれません。
でも、それが不快感だったらどうでしょう。
だるい、重い、かゆい、ムズムズする。
そういう時は、体が「ちょっと気づいてくれ」と言っているのかもしれません。
体から出てくる声に、まったく意味のないものはない。
私はそんなふうに考えています。
だからこそ、不調をただ嫌なものとして終わらせるのではなく、
「これは何を伝えようとしてるんだろう?」
と一度立ち止まってみる。
その習慣が、けっこう大事なんじゃないかと思うのです。
止めることと、整うことは同じじゃない
最近はだいぶ春めいてきました。
暖かい日が増えてくると、気になってくるのが花粉です。
花粉に反応しやすい人は、この時期になると体も不快な声を出しやすくなります。
目がかゆい。
鼻水が止まらない。
くしゃみが出る。
こうなったら、そりゃ「今すぐ止まってくれ!」と思いますよね。
でも、ここでひとつ考えてみたいんです。
その「止める」という行為は、イコール「治った」ということなんだろうか、と。
たしかに、止まれば一時的には楽になります。
でも、楽になったことと、不快感が落ち着いたことは、必ずしも同じじゃない。
ここは分けて考えてもいい気がします。
たとえば、体が外に流そうとしているような反応が起きている時。
鼻ダラダラ、涙ぽろぽろみたいな。
その時に大事なのは、ただ反応を嫌うことではなく、
「今、体は何をしようとしているんだろう?」
と立ち止まって見ることかもしれません。

体の声に耳を傾けると、行動が変わる
もし、この体の声に少し耳を傾けてみたら。
その後の行動は、きっと変わってきます。
私だったら、ただ抑えることだけを考えるのではなく、
体が外へ流そうとしているなら、それを邪魔しない方向をまず考えます。
たとえば、目なら「洗眼」。
鼻なら「ネティーポット」。
もちろん、それが万人にとってどうかという話は別です。
合う合わないもあるし、選び方は人それぞれ。
でも少なくとも、体の声を無視した時と、耳を傾けた時とでは、その後の動きは変わります。
とにかく止めにいくのか。
それとも、体がしようとしていることを見ながら付き合うのか。
この違いは、思っている以上に大きい。
私はそう感じています。
不調との付き合い方は、見方で変わる
今回は、季節柄わかりやすい例として花粉の話を書きました。
でも、ここで本当に言いたいのは、花粉のことそのものではありません。
不調をどう見るか。
そこなんです。
不調をただの悪者として、すぐに抑え込むのか。
それとも、体からの声として一度受け取ってみるのか。
その見方が変わるだけで、体との付き合い方は少し変わってきます。
不調が出た時、すぐに「敵だ」と決めつけるのではなく、
「この体、今なにを伝えようとしてるんだろう?」
と一回立ち止まってみる。
そのひと手間が、
体をねじ伏せる付き合い方ではなく、
体と対話する付き合い方への入り口になるのかもしれません。




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